Column
コラム

◀︎ ニュース一覧

怒る黙阿弥

関亜弓

 

「三人吉三」に出てくる登場人物は、みんなキャラが立っている。特に三人の吉三郎の「今は盗賊、かつては○○」という設定がたまらなくカッコイイ。包容力のある坊主あがりのリーダー・和尚吉三、お坊ちゃんをこじらせてグレてしまったお坊吉三、元は旅役者の女方、女装姿で悪さをするお嬢吉三。ちょっと危うい匂いのするこの三人が、現代の東京にもし現れたら、若者憧れの存在になり得ただろう。

 

三人吉三廓初買 3編12巻(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

 

そんな彼らを生んだ、作者の河竹黙阿弥は数え年14歳で勘当されたという武勇伝があり、相当な遊蕩生活を送っていたようだ。さぞチャラついた遊び人、いわゆるモテ男だったに違いない。多少ハードルを上げてしまったが、とりあえず黙阿弥の顔をみてみよう。

 

77歳の黙阿弥(河竹繁俊著「河竹黙阿弥」より)

 

 

どうだろう。写真が日本で一般的になったとき、既に黙阿弥は50歳近かったため、残念ながらこれは晩年の写真だ。遊び盛りの姿は想像するしかないが、この写真の人物が「昔は札付きのワル」とか「吉原で一世風靡をしていた遊び人」だったとは、正直思えない。ちなみに私は「頑固おやじ、怒る」という見出しを心の中でつけた。黙阿弥の家を継いだ長女の養嗣子にあたる河竹繁俊氏が「晩年は朴訥な老爺となって、現代風にいえば田舎おやじで、苦虫をかみつぶしたような面相の、渋い好みの老人となった」(註1)と言っているので、私の感覚はそう間違っていない気がする。

 

 

さて黙阿弥の外見のことばかり並べ立ててしまったが、このコラムで「作風と作者の顔は比例しない」という話をしたいのではない。晩年のこの怒り頑固おやじフェイスになるまでに何があったのか、その怒りの原因を探りたいと思ったのだ。幕末から明治をまたぐ動乱の時代を生き抜いた黙阿弥であるから、察するに様々な<怒り>を経験した結果、この顔になったのだと想像できる。その怒りに触れることは、同時に黙阿弥が何を大事にしていたか、守りたかったものは何かを探ることにも繋がる気がする。

 

 

しかし黙阿弥は、感情を表に出すタイプではなかったようだ。そんな黙阿弥が何を根拠に「怒った」と言うか、これは難しいことである。結論からいうと、喧嘩沙汰になる、暴言を吐く、などとわかりやすく怒った事件はなかった。しかし「出勤拒否」をしたことと、「以後、その劇場に足を踏み入れない」という行動を以って憤りを示したことはあったので、その二つのエピソードを紹介する。

 

 

前者は、四代目市川小團次の遺児・初代市川左團次に対する、座元の義理を欠くような処遇に対してだ。黙阿弥の作者生活に影響を与えた役者が何人かいるが、その中でも特別な存在だったのが、四代目市川小團次である。小團次は容姿や声には恵まれなかったが、芝居がうまく、自ら演出に工夫を加えるなどして大衆の人気を集め、実力で座頭まで上りつめた役者だ。黙阿弥の、江戸に生きる庶民を生々しく、活き活きと描く作風や、「白浪物」と呼ばれる盗賊が主人公の芝居などは小團次とタッグを組んでこそ生まれた作品だ。万延元(1860)年市村座で初演された『三人吉三廓初買』(のちに『三人吉三巴白浪』と改題)はその代表作である。小團次と組んだ13年間で、黙阿弥は今日も繰り返し上演される名作を多数残していることから、作者人生前半のパートナーといえるだろう。その小團次は、明治維新の直前の慶応2(1866)年、死去した。病名は正確にはわかっていないので謎は多いが、幕府から「人情を穿ち過ぎる芝居」に対する禁令が出たことが遠因だといわれている。庶民の生き方を、因果応報の観点で描くことが醍醐味だった当時の芝居を、時代が拒否し始めたのだ。黙阿弥は、小團次の死に直面したときも怒っていたと思う。しかし小團次の遺児である左團次を引き受け、一人前の役者に育てることへ、そのエネルギーを転化した。黙阿弥は左團次の養母に「三年間自分の子として預かる」旨を提案し、説得した。しかし、両者にとっての新たな道を踏み出そうとしていたその矢先に、ある事件が起こる。黙阿弥が左團次のためにふった重要な役を、座元の思惑により他の役者に変更されたのだ。黙阿弥は意見したが通らず、とうとう左團次を引き連れて退座の意向を示した。

 

 

第二の怒りは、歌舞伎座開場柿落としのときのエピソードだ。小團次の死後、一年半が経ち、明治維新が起こる。新しい時代になり、世の中全体に西洋化の波が押し寄せたが、芝居の世界も例外ではない。明治22年に誕生した歌舞伎座の座主であった福地源一郎(桜痴)は、演劇改良運動の中心人物であった。旧来の狂言作者たちに対する、演劇改良会の攻撃は凄まじいものだったらしい。西洋化を推進する福地は、黙阿弥のことを「無知無学の輩」と蔑んでいた。そんな福地は、自ら書き下ろした新作を杮落とし公演にかける気満々だった。ところが新富座の座元・十二代目守田勘弥とのトラブルが原因で、開場に間に合わせることができなくなってしまったのだ。そこで、資金面で支援をしていた千葉勝五郎は、他劇場で既に成功を収めていた黙阿弥作の『黄門記童幼講釈(こうもんきおさなごうしゃく)』で開幕することを主張した。福地は渋々同意したが、よほど悔しかったのだろう。座主の権限で外題(タイトル)を『俗説美談黄門記』と勝手に変え、番付に「古川黙阿弥原作、福地源一郎添削」と付けて幕を開けたのだ。“添削”とは、なんという上から目線だろうか。更に黙阿弥の脚本は荒唐無稽だとして、場面をカットしたり、演説めいたシーンを入れたりと、勝手に手を加えたのである。この作者への侮辱ととれる仕打ちへの憤慨からか黙阿弥は死ぬまで、客として見物することはたまにあっても、二度と作者として足をふみ入れることはなかった。

 

 

以上、黙阿弥の怒りを切り取ってみたが、その怒りには二種類あると思った。一つは義理を軽んじられた時、一つは狂言作者としてのプライドを傷つけられた時だ。しかし黙阿弥はどんなに憤ることがあっても、決して筆を置くことはなかった。市村座を去った後も、守田座に出勤し新作を書き続け、左團次の当たり役を次々に生み出した。そして九代目團十郎、五代目菊五郎とともに明治の名優「團菊左」の一人になるまでに育てあげ、小團次の恩義に報いることができた。明治時代に開場した歌舞伎座には、顔寄せ以降足を運ぶことはなかったが、作品は提供し続けた。五代目菊五郎のために書いた『戻橋』『奴凧』などは、現在も上演される人気狂言だ。自分の感情に左右されずに作品を書き続けたのは、芝居への愛情が深いというべきか、もはや使命感に駆られてのことなのか。生涯、約360篇もの作品を残した黙阿弥にその真意を聞いてみたかった。

 

 

また、黙阿弥が遺したのは作品だけではないことを記しておく。それは『狂言作者心得書』という、いわば狂言作者の仕事を細かにまとめた<引き継ぎマニュアル>のようなものだ。立作者(主席作者)、二枚目・三枚目作者、狂言方、見習いと分けて、それぞれ「役者から訂正を頼まれた時には、その場面を書いた作者の許可を得て訂正する」といった職掌のことや、「見習いは、給金はわずかしかもらえないが、作者になることを目標に、精進すること」など、血の通った言葉で後進にエールまで送っている。誰に頼まれた訳でもないのに、これほど芝居の未来のことまで考えて、実践できたのは黙阿弥くらいだろう。黙阿弥が弟子に残した有名な三親切「見物に親切、役者に親切、座元に親切」という言葉があるが、加えて「歌舞伎(芝居)に親切」を果たしたように思う。黙阿弥という隠居名が示すように、まさに阿弥陀さまのように、歌舞伎に尽くした人生だった。

 

 

さらに黙阿弥の内面について、幸運にも河竹家の方から伺うことができた。話を基に掘り下げると、以下のようである。つつしみ深く、理知的で、堅実。酒席には積極的に連なるが酒は飲まない。信心深く、葬儀などは欠かさず礼を尽くす。女遊びもせず、31歳の時に見合いで結婚。生涯で四人の子宝にも恵まれたそうだ。なんというか普通すぎる……いや、普通以上な真面目さに驚いてしまった。黙阿弥自ら「俺の家なんざァ芝居にや書けねえ」といったというのにも頷ける。冒頭で紹介した「勘当されるほどの放蕩三昧」についても、勘当のあと、遊び仲間の家を転々とした3年間の遊楽生活の間に、芝居・講釈・落語に通い、仲間たちと茶番を作るなど徹底して遊び、世の中や、人間の機微を学んだというのが実情だそうだ。放蕩といっても、現代のパーティーピープルのような遊び方ではなかったことをここに記しておく。付き合いにくそうな頑固親父どころか、上司にしたい男ナンバーワンになるくらいの人格者ではないか。黙阿弥の義理堅さ、芝居への愛の深さに触れてから、改めて黙阿弥の肖像に目をやると、相変わらず口はへの字のままだったが、その表情から、もはや怒りは感じ得なかった。

 

 

もしかすると黙阿弥は、不条理な世の中に対し、怒りを通り越し、ただ醒めた目で眺め、諦観していたのかもしれない。その代わり激しい感情は作品の登場人物に託し、発散することで、バランスを保っていたのだろう。特に黙阿弥が作者部屋に入る頃から二十年間、つまり立作者になってから『三人吉三廓初買』初演の頃は、激動の時代であった。安政の大地震を含めた天災の連続、飢饉や大火などの人災が続き、初演の三年前にあたる安政五(1858)年には、コレラという感染症が流行し、江戸の死者数は約10万人とも30万人とも言われている。

 

 

黙阿弥が「三人吉三」の登場人物に託した、行き場のない怒りや嘆きは、現代の日本、世界が抱えるものとそう変わらない気がする。その行き場のない怒りがどこに終着するのか。未来の「三人吉三」にご期待いただきたい。

 

 

(註1)1986.河竹繁俊「河竹黙阿弥」252頁


[参考文献]

  • 1984.河竹黙阿弥(著),今尾哲也(解説)「三人吉三廓初買 (新潮日本古典集成)」
  • 1996.河竹登志夫「黙阿弥」
  • 2002. 河竹黙阿弥(著),坪内祐三(編集),山内昌之(編集)「河竹黙阿弥(明治の文学)」
  • 2009.今尾哲也「河竹黙阿弥:元のもくあみとならん」
  • 2011.渡辺保「黙阿弥の明治維新」
  • 2013.石山俊彦「歌舞伎座五代――木挽町風雲録」

 


関 亜弓

ライターとして各媒体で執筆する他、“0歳からはじめる歌舞伎”と冠した子ども向けイベント「かぶこっこ」を各地で開催。カルチャースクール講師、筋書やイベントでの歌舞伎俳優へのインタビューや聞き手なども務める。oz mall「恋する歌舞伎」淡交社「なごみ」で連載中。


関亜弓

 

「三人吉三」に出てくる登場人物は、みんなキャラが立っている。特に三人の吉三郎の「今は盗賊、かつては○○」という設定がたまらなくカッコイイ。包容力のある坊主あがりのリーダー・和尚吉三、お坊ちゃんをこじらせてグレてしまったお坊吉三、元は旅役者の女方、女装姿で悪さをするお嬢吉三。ちょっと危うい匂いのするこの三人が、現代の東京にもし現れたら、若者憧れの存在になり得ただろう。

 

三人吉三廓初買 3編12巻(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

 

そんな彼らを生んだ、作者の河竹黙阿弥は数え年14歳で勘当されたという武勇伝があり、相当な遊蕩生活を送っていたようだ。さぞチャラついた遊び人、いわゆるモテ男だったに違いない。多少ハードルを上げてしまったが、とりあえず黙阿弥の顔をみてみよう。

 

77歳の黙阿弥(河竹繁俊著「河竹黙阿弥」より)

 

 

どうだろう。写真が日本で一般的になったとき、既に黙阿弥は50歳近かったため、残念ながらこれは晩年の写真だ。遊び盛りの姿は想像するしかないが、この写真の人物が「昔は札付きのワル」とか「吉原で一世風靡をしていた遊び人」だったとは、正直思えない。ちなみに私は「頑固おやじ、怒る」という見出しを心の中でつけた。黙阿弥の家を継いだ長女の養嗣子にあたる河竹繁俊氏が「晩年は朴訥な老爺となって、現代風にいえば田舎おやじで、苦虫をかみつぶしたような面相の、渋い好みの老人となった」(註1)と言っているので、私の感覚はそう間違っていない気がする。

 

 

さて黙阿弥の外見のことばかり並べ立ててしまったが、このコラムで「作風と作者の顔は比例しない」という話をしたいのではない。晩年のこの怒り頑固おやじフェイスになるまでに何があったのか、その怒りの原因を探りたいと思ったのだ。幕末から明治をまたぐ動乱の時代を生き抜いた黙阿弥であるから、察するに様々な<怒り>を経験した結果、この顔になったのだと想像できる。その怒りに触れることは、同時に黙阿弥が何を大事にしていたか、守りたかったものは何かを探ることにも繋がる気がする。

 

 

しかし黙阿弥は、感情を表に出すタイプではなかったようだ。そんな黙阿弥が何を根拠に「怒った」と言うか、これは難しいことである。結論からいうと、喧嘩沙汰になる、暴言を吐く、などとわかりやすく怒った事件はなかった。しかし「出勤拒否」をしたことと、「以後、その劇場に足を踏み入れない」という行動を以って憤りを示したことはあったので、その二つのエピソードを紹介する。

 

 

前者は、四代目市川小團次の遺児・初代市川左團次に対する、座元の義理を欠くような処遇に対してだ。黙阿弥の作者生活に影響を与えた役者が何人かいるが、その中でも特別な存在だったのが、四代目市川小團次である。小團次は容姿や声には恵まれなかったが、芝居がうまく、自ら演出に工夫を加えるなどして大衆の人気を集め、実力で座頭まで上りつめた役者だ。黙阿弥の、江戸に生きる庶民を生々しく、活き活きと描く作風や、「白浪物」と呼ばれる盗賊が主人公の芝居などは小團次とタッグを組んでこそ生まれた作品だ。万延元(1860)年市村座で初演された『三人吉三廓初買』(のちに『三人吉三巴白浪』と改題)はその代表作である。小團次と組んだ13年間で、黙阿弥は今日も繰り返し上演される名作を多数残していることから、作者人生前半のパートナーといえるだろう。その小團次は、明治維新の直前の慶応2(1866)年、死去した。病名は正確にはわかっていないので謎は多いが、幕府から「人情を穿ち過ぎる芝居」に対する禁令が出たことが遠因だといわれている。庶民の生き方を、因果応報の観点で描くことが醍醐味だった当時の芝居を、時代が拒否し始めたのだ。黙阿弥は、小團次の死に直面したときも怒っていたと思う。しかし小團次の遺児である左團次を引き受け、一人前の役者に育てることへ、そのエネルギーを転化した。黙阿弥は左團次の養母に「三年間自分の子として預かる」旨を提案し、説得した。しかし、両者にとっての新たな道を踏み出そうとしていたその矢先に、ある事件が起こる。黙阿弥が左團次のためにふった重要な役を、座元の思惑により他の役者に変更されたのだ。黙阿弥は意見したが通らず、とうとう左團次を引き連れて退座の意向を示した。

 

 

第二の怒りは、歌舞伎座開場柿落としのときのエピソードだ。小團次の死後、一年半が経ち、明治維新が起こる。新しい時代になり、世の中全体に西洋化の波が押し寄せたが、芝居の世界も例外ではない。明治22年に誕生した歌舞伎座の座主であった福地源一郎(桜痴)は、演劇改良運動の中心人物であった。旧来の狂言作者たちに対する、演劇改良会の攻撃は凄まじいものだったらしい。西洋化を推進する福地は、黙阿弥のことを「無知無学の輩」と蔑んでいた。そんな福地は、自ら書き下ろした新作を杮落とし公演にかける気満々だった。ところが新富座の座元・十二代目守田勘弥とのトラブルが原因で、開場に間に合わせることができなくなってしまったのだ。そこで、資金面で支援をしていた千葉勝五郎は、他劇場で既に成功を収めていた黙阿弥作の『黄門記童幼講釈(こうもんきおさなごうしゃく)』で開幕することを主張した。福地は渋々同意したが、よほど悔しかったのだろう。座主の権限で外題(タイトル)を『俗説美談黄門記』と勝手に変え、番付に「古川黙阿弥原作、福地源一郎添削」と付けて幕を開けたのだ。“添削”とは、なんという上から目線だろうか。更に黙阿弥の脚本は荒唐無稽だとして、場面をカットしたり、演説めいたシーンを入れたりと、勝手に手を加えたのである。この作者への侮辱ととれる仕打ちへの憤慨からか黙阿弥は死ぬまで、客として見物することはたまにあっても、二度と作者として足をふみ入れることはなかった。

 

 

以上、黙阿弥の怒りを切り取ってみたが、その怒りには二種類あると思った。一つは義理を軽んじられた時、一つは狂言作者としてのプライドを傷つけられた時だ。しかし黙阿弥はどんなに憤ることがあっても、決して筆を置くことはなかった。市村座を去った後も、守田座に出勤し新作を書き続け、左團次の当たり役を次々に生み出した。そして九代目團十郎、五代目菊五郎とともに明治の名優「團菊左」の一人になるまでに育てあげ、小團次の恩義に報いることができた。明治時代に開場した歌舞伎座には、顔寄せ以降足を運ぶことはなかったが、作品は提供し続けた。五代目菊五郎のために書いた『戻橋』『奴凧』などは、現在も上演される人気狂言だ。自分の感情に左右されずに作品を書き続けたのは、芝居への愛情が深いというべきか、もはや使命感に駆られてのことなのか。生涯、約360篇もの作品を残した黙阿弥にその真意を聞いてみたかった。

 

 

また、黙阿弥が遺したのは作品だけではないことを記しておく。それは『狂言作者心得書』という、いわば狂言作者の仕事を細かにまとめた<引き継ぎマニュアル>のようなものだ。立作者(主席作者)、二枚目・三枚目作者、狂言方、見習いと分けて、それぞれ「役者から訂正を頼まれた時には、その場面を書いた作者の許可を得て訂正する」といった職掌のことや、「見習いは、給金はわずかしかもらえないが、作者になることを目標に、精進すること」など、血の通った言葉で後進にエールまで送っている。誰に頼まれた訳でもないのに、これほど芝居の未来のことまで考えて、実践できたのは黙阿弥くらいだろう。黙阿弥が弟子に残した有名な三親切「見物に親切、役者に親切、座元に親切」という言葉があるが、加えて「歌舞伎(芝居)に親切」を果たしたように思う。黙阿弥という隠居名が示すように、まさに阿弥陀さまのように、歌舞伎に尽くした人生だった。

 

 

さらに黙阿弥の内面について、幸運にも河竹家の方から伺うことができた。話を基に掘り下げると、以下のようである。つつしみ深く、理知的で、堅実。酒席には積極的に連なるが酒は飲まない。信心深く、葬儀などは欠かさず礼を尽くす。女遊びもせず、31歳の時に見合いで結婚。生涯で四人の子宝にも恵まれたそうだ。なんというか普通すぎる……いや、普通以上な真面目さに驚いてしまった。黙阿弥自ら「俺の家なんざァ芝居にや書けねえ」といったというのにも頷ける。冒頭で紹介した「勘当されるほどの放蕩三昧」についても、勘当のあと、遊び仲間の家を転々とした3年間の遊楽生活の間に、芝居・講釈・落語に通い、仲間たちと茶番を作るなど徹底して遊び、世の中や、人間の機微を学んだというのが実情だそうだ。放蕩といっても、現代のパーティーピープルのような遊び方ではなかったことをここに記しておく。付き合いにくそうな頑固親父どころか、上司にしたい男ナンバーワンになるくらいの人格者ではないか。黙阿弥の義理堅さ、芝居への愛の深さに触れてから、改めて黙阿弥の肖像に目をやると、相変わらず口はへの字のままだったが、その表情から、もはや怒りは感じ得なかった。

 

 

もしかすると黙阿弥は、不条理な世の中に対し、怒りを通り越し、ただ醒めた目で眺め、諦観していたのかもしれない。その代わり激しい感情は作品の登場人物に託し、発散することで、バランスを保っていたのだろう。特に黙阿弥が作者部屋に入る頃から二十年間、つまり立作者になってから『三人吉三廓初買』初演の頃は、激動の時代であった。安政の大地震を含めた天災の連続、飢饉や大火などの人災が続き、初演の三年前にあたる安政五(1858)年には、コレラという感染症が流行し、江戸の死者数は約10万人とも30万人とも言われている。

 

 

黙阿弥が「三人吉三」の登場人物に託した、行き場のない怒りや嘆きは、現代の日本、世界が抱えるものとそう変わらない気がする。その行き場のない怒りがどこに終着するのか。未来の「三人吉三」にご期待いただきたい。

 

 

(註1)1986.河竹繁俊「河竹黙阿弥」252頁


[参考文献]

  • 1984.河竹黙阿弥(著),今尾哲也(解説)「三人吉三廓初買 (新潮日本古典集成)」
  • 1996.河竹登志夫「黙阿弥」
  • 2002. 河竹黙阿弥(著),坪内祐三(編集),山内昌之(編集)「河竹黙阿弥(明治の文学)」
  • 2009.今尾哲也「河竹黙阿弥:元のもくあみとならん」
  • 2011.渡辺保「黙阿弥の明治維新」
  • 2013.石山俊彦「歌舞伎座五代――木挽町風雲録」

 


関 亜弓

ライターとして各媒体で執筆する他、“0歳からはじめる歌舞伎”と冠した子ども向けイベント「かぶこっこ」を各地で開催。カルチャースクール講師、筋書やイベントでの歌舞伎俳優へのインタビューや聞き手なども務める。oz mall「恋する歌舞伎」淡交社「なごみ」で連載中。